「見えない観客」にも届く芝居とは?
舞台上で何かが起きていることは、必ずしも目で見えることだけではない—
視覚障害のある観客席の人が、目を閉じたまま感動する芝居を創れるだろうか。この問いに真摯に向き合った稽古から、演技の本質が見えてきた。
「目が見えなくても感動できる芝居」という明確なゴール
今回の稽古を貫く一つのテーマがあった。それは、舞台の都合で視覚情報が得られない観客にも、話の内容と感情が理解でき、感動を共有できる芝居を創るということだ。
これはシンプルだが、同時に非常に厳しい要求である。なぜなら、演技の要素から「見られることの安心感」を取り除いた時、役者に残される武器は限定的だからだ。頼れるのは、音声表現、テンポ感、そして身体的な「空気感」だけ。この制約の中で、いかに人の心を揺さぶるか—それが今回の稽古のテーマだった。
稽古は大きく三つのセッションで構成された。リズムトレーニング、即興演技、そして技術フィードバック。一見すると単純に見えるが、その奥深さは予想を超えるものだった。
リズムゲームから始まる集中力トレーニング
稽古の冒頭は、一種の「言葉のリズムゲーム」で幕を開けた。
「森から始まるリズムに合わせて」「線から始まるリズムに合わせて」という掛け声の下、参加者たちが指定された単語を、特定のテンポで繰り返す。簡単に聞こえるが、実際はそうではない。失敗(アウト)が厳しくカウントされ、失敗を重ねると「指で数えて」と指示される—つまり、数字で記録として刻まれるのだ。
この競争形式の練習が目指すのは、役者の即応能力とテンポ感の鍛錬。舞台では、共演者との絶妙なタイミング、観客の笑いのタイミング、そして劇場のエネルギーとシンクロすることが求められる。リズムゲームは、その感覚を研ぎ澄ます刃だ。
即興から生まれるリアルな「流れ」
次のセッションは、「オールイエスのコーナー」と名付けられた即興演技のターンだ。
参加者がペアを組み、与えられたシチュエーションで1分間のシーンを作り上げる。設定は実に多彩だ。
- 「トムとジェリー」
- 「初めてのデート」
- 「ラスベガスのカジノでの一発勝負」
- 「関西国際空港で二人」
- 「キャバクラの待機場」
- 「ボーリング玉泥棒」
一見ランダムに見えるこれらのテーマが、実は役者たちに何を求めているのか。それは、状況への適応力と、相手に反応する柔軟性だ。即興演技では、台本の正解を目指すのではなく、相手の動きに応じてシーンを生き物のように展開させることが求められる。
ただし、フィードバックは厳しい。セリフのやり取りがルーティン化していないか、感情に浸り込むあまりシーンが前に進んでいないか—こうした停滞は、観客を退屈させる最大の敵として指摘された。
核心:「音痴な芝居」という衝撃的な指摘
稽古の最も深い部分は、最後のフィードバックセッションで訪れた。
演技指導者は、参加者たちの演技を聞いた後、ある厳しい指摘をした。
「あなたたちは『音痴な芝居』をしている」
この言葉を聞いた時、参加者たちは戸惑ったかもしれない。だが、その理由を聞くと、状況は一変する。
どんなに役者が内面を深く分析し、キャラクターになりきったつもりでも、声の音程やリズムが一切変わらなければ、観客の耳には同じ音、つまり棒読みに聞こえるのだ。
これは、多くの役者が見落としている本質的な問題だ。アクターズスタジオ的なメソッド演技では、内面の感情に焦点が当たる。だが、舞台は「聞く芸術」でもある。内面がいかに豊かであっても、それが音声に反映されなければ、観客には届かないのだ。
例えば、優しい台詞でも、険しい台詞でも、悲しい台詞でも、いつも同じ高さで、同じ強さで発されていたら—観客は混乱する。台詞の意味は分かるが、その感情的な重みが伝わらない。これが「棒読みに聞こえる理由」なのだ。
演技指導者は続ける。役者たちの発話に「立体感がない」と。常に同じ音の位置(高さや奥行き)で喋り続けることで、芝居全体が平坦に聞こえるのだ。
日本語という言語の落とし穴
ここで、一つの言語的な問題が浮上する。
日本語は強弱の文化である。一方、英語やロシア語は、メロディを持つ言語だ。これらの言語では、感情が変わると自動的に音程やリズムが変わる。しかし日本語では違う。内面を変えただけでは、言い方(音程)は自動的には変わらない。
つまり、日本語で演技をする役者には、意図的に音程やリズム、強弱を変える意識的な技術が必要になるのだ。これは、英米の演劇教育では、あまり強調されない側面かもしれない。
では、なぜ多くの日本の役者がこの課題を克服できていないのか。指導者の分析は鋭い。
問題の多くは、母音と子音の処理の雑さに起因しているという。口の形が固定されていれば、音程を変化させることは難しい。セリフを強調することも難しくなる。舞台上での動きと、セリフのリズムがズレていれば、観客には不自然さが伝わる。
声を「楽器」として鍛える
こうした課題を克服するために、一つの提案が上がった。
「音定トレーニング」や「応員道場」として、口の形を意識した母音・子音の発声練習を毎日行うこと。
この提案の背景にあるのは、シンプルだが強力な考えだ。役者にとって、自分の体が楽器であるのなら、その楽器(声)のチューニングは不可欠だということ。プロの声楽家やアナウンサーは、毎日、音声トレーニングを欠かさない。演技者も同じだ。
この視点は、「感情を深く感じることが演技の本質」という一般的な理解に、一つの修正を加える。もちろん感情の深さは重要だ。だが、それを聞き手に正確に、効果的に伝える技術的な基礎なくして、真の演技表現は成り立たないのだ。
劇団のプロモーション戦略:論を発信する劇団
稽古の裏側では、別の動きもあった。劇団の経営と広報活動だ。
稽古で得られた演劇論やフィードバック内容は、SNS(特にThreads)向けに編集され、積極的に投稿されている。指導者は語る。演劇論を公開している劇団は珍しいため、これらの投稿は高い関心を集めているのだと。
採用活動も並行して進められており、応募書類作成やスケジューリングなど、事務作業に追われている様子も窺える。また、稽古の動画編集も進行中。テロップ作業などに膨大な時間を費やしながら、コンテンツを磨き続けている。
これは、現代の劇団が直面する課題の象徴でもある。優れた稽古と表現だけでは足りない。それを社会に発信し、観客に届ける仕組みが必要なのだ。
役者たちの多面的な可能性
稽古の参加者からは、演劇以外への関心も聞かれた。バンドを組んでライブを行う計画、ギターやドラムへの熱い思い。役者たちは、演劇という枠を超えた表現活動に心を寄せている。
これもまた、現代の表現者の姿を示している。演劇だけに人生を捧げるのではなく、複数の表現活動を並行させ、相乗効果を生み出しながら、自分の表現言語を豊かにしていく—それは、むしろ望ましい在り方かもしれない。
最後に:「できるのにできない」という究極の課題
稽古の最後に、演技指導者は強く語った。
役者たちが抱える最大の問題は、「できるのにできない」という状態だという。つまり、技術的には可能なはずなのに、実行に移していない。あるいは、その可能性に気づいていない。
俳優としての価値を高めるためには、自分たちが抱える根本的な技術的課題—音程、リズム、母音・子音の処理—から目を背けてはならない。そして、毎日のトレーニングを通じて、これらに向き合い続ける必要がある。
今回の稽古は、単なる台本の読み合わせではなかった。それは、声の響き、リズム、そして日本語という言語の特性を深く理解し、「見えない観客」にも届く表現を追求する、本質的な技術トレーニングだったのだ。
視覚を失った観客にも感動を届けることができたなら、目が見える観客には、さらに豊かな表現世界が広がるはずだ。その先に、真の舞台表現の力がある。




